Krishnamurti 問題と解答    Ver 1.43





我々は決して問題そのものを理解せずに常に答えを探し求める。
問題は自己創出されたというのに、それを離れて答えを見出そうとするのだ。

答えを求めることは問題から逃避する仕方の一つである。
問題、すなわち自己の理解がなければならない。
あなたと問題は一つであって二つの別々の過程ではない。
あなたは即、あなたの問題なのである。



私たちの多くは問題を抱えており、それを解決したい。
問題が何であるか知らなくても、満足のいく答え、満足のいく解決を望みます。
私たちは、答え・解決に関わっており、問題に関わってはいません。
それゆえ、私たちの注意は分断されています。
存在の全体で問題を理解しようとするかわりに、心の一部分で解決を求めています。
解決は生じるかもしれないし生じないかもしれません。
しかし、問題を理解するためには、
私たちの関心は解決にではなく、問題それ自体に関わっていなくてはならないのです。



「問い-答え」は、極めてとてつもない探求の運動であり、
それを続けていくと、ついに脳が答えられない地点に達するのです。
するとその問いが、それ自体の活力、それ自体のエネルギーを持つのです。
それに答えるのはあなたではなく、その問いが自ら答えるのです。



最短の道はありません。
しかし、あなたが安楽や安逸を求める欲求のために、
それら、つらい感情などの心理的問題から逃げようとしているのでないのなら、
その問題そのものがあなたを解放するでしょう。
しかし、単にそこから逃げようとしているに過ぎないのなら、
あなたはなぜそれが存在するのか理解しません。
そして理解できないので、
混乱から抜け出す最短の道にしか興味を持たないのです。

私ははっきり言いますが、最短の抜け道を指し示す人に用心しなさい。
苦痛や問題それ自体によるほかに、そこから抜け出す道はありません。
これは難解な言葉ではありません。
あなたはそれを、一切の逃避をやめた瞬間、理解するでしょう。
そのとき、あなたはもはや説明に巻き込まれてはいないでしょう。
あらゆる説明、意味づけが止んだとき、
それらが何の意味も持たないとき、
そのとき真理があります。
しかし、あなたは説明を求めています。
最も早くそこを抜け出す方法を求めています。
それらすべては問題からの逃避です。
しかし、あなたが本当に逃避の構造を理解するとき、
あなたのなかに葛藤を作り出してきたものに完全に直面するとき、
そのとき、そのもの自体があなたを解放するでしょう。
あなたが逃避することを全面的にやめたとき、
そのとき、あなたが免れようとしてきたそのもの自体が
その完全な意味を明らかにするでしょう。
この理解が精神を悲しみから解放するのです。



事実は問題を作り出しません。
「恐怖」という事実は問題を決して作り出しません。
が、「私は恐れてはならない」「恐れを免れたい」という思考は、時間を持ち込んでおり、
問題を作り出しているのです。
事実ではなく、そのことが問題を作り出しているのです。



私たちは、自分自身である本当の問題を避けるのです。
自分の葛藤、自分の苦しみに直面しないで、
気づくようになるための方法・技法を求めるのです。
しかし、避けたいと望んでいる当のもの・当体(=自己)こそが問題なのですから
逃げ切ることはできないのです。



問題に対して、一つも孤立した解答はありません。
私たちが単に問題を無くすことを求めているに過ぎないなら、
その解消を求める欲求が他の問題を引き起こすということを知るでしょう。
であるのに反して、
私たちが答えを見つけようとすることなしに問題それ自体を調べることができるなら、
答えは問題のなかにあるのです。

そこで、問題にどうやって近づくのかを知ることが大切です。
問題を持っており、そして答えを求めている心は、
どうしても問題それ自体を突っ込んで調べることができません。
なぜなら、それは問題の解決に気を取られているからです。
どんな問題であれ、理解するためには、あなたはそれに全注意を注がなくてはなりません。
あなたが解決・解答を求めている限り、それはできないのです。



問題を免れようとして原因を探すことや、それを言葉で説明し「分かろう」とすることで、
この問題(=事実)から心がそれてしまってはならない。
そのことを、まず私は理解しなければなりません。
これらすべては問題(=事実)から気をそらすパターンです。
そこから逃避してはならないということが、まずもって明確でなければなりません。
また、それを克服しようという意志の行使もあってはなりません。
意志は問題の本質そのものです。



この問いには、ただ一つの答えしかありません。
自らを知りなさい。御自身を観察なさることです。
咎めだてしたり修正しようとしたりするのではなく、ただ観察するのです。
問題の解決は、その問題の理解のなかにあります。
問題を凝視する過程のなかで、答えはおのずから明確になります。
「現にある事実」を受動的に見つめるというまさにその営みが、
それ独特の和解を招来するのです。



心が、矛盾なしに生きてゆくにはどうすればいいのかを学ぼうとするなら、
それは、ためらいがちに、沈黙して、静かに接近しなければならないでしょう。
そして私が今しているように、そうするとき、
問題があり、そして問題についてまったく知らないので完全に沈黙している心があります。
私はこの奇妙な静けさ、問題を注意深く見ているこの奇妙な静けさが何なのか尋ねます。
それは誘発されたものでしょうか。
心は問題をまぬがれ、矛盾のない調和の状態のなかで生きたいので、
その沈黙を誘発したのでしょうか。
それとも、その沈黙は自然なものでしょうか。
それが誘発されたのではなく、自然に起こってきたものなら、
そのとき中心があるでしょうか。
矛盾の状態のなかにある中心があるでしょうか。

中心が本質的に矛盾なのです。
そして、その矛盾、その問題を注意深く見ている沈黙だけがあるなら、
その沈黙は自然な状態でしょうか。
それとも、それは心が調和の状態のなかで生きたいが故に誘発したものでしょうか。
それが自然なものでないのなら、再び矛盾が始まります。
それで、心はどんな問題にも完全に沈黙して接近できるでしょうか。
これは実行するのが最も難しいことの一つです。
にも関わらず、
ひとは他のどんな接近方法も矛盾を引き起こすに違いないことを見て取ります。



私たちにできることは「問題それ自体」を突っ込んで調べることだけなのです。
問題に対する答えを求めている心は、決して問題を理解しないでしょう。
なぜならそれは、
直ちに満足させてくれる、慰めを与えてくれる答えを求めているに過ぎないからです。

ひとが本当に問題を理解したいなら、決して答えを求めるべきではありません。
そうではなく反対に、問題自体を突っ込んで調べるべきなのです。
これは私たちにとって非常に難しいことです。
なぜなら問題に踏み込んで調べることは、英知、忍耐、勤勉、観察―
決して受け入れたり拒絶したりしないで探求することを意味するからです。
私たちが苦しむとき、私たちの大部分は即座の解答を求めます。
なぜなら私たちの唯一の関心は、その苦痛から逃れることだからです。
逃げ道を求めるなかで、私たちは信念に走り込みます。
これらの問題を考えている今、私たちは答えを求めてはいません。
なぜなら答えなどないからです。

これらの質問を通して、私たちは問題を詳しく調べようとしているのです。
あなたが単に答えを求めているに過ぎないなら、残念ながら失望するだろうと思います。
しかし、私たちが共に調査の旅に出かけることができ、
その結果、私たちの各々が調査の状態を経験するなら、
そのとき問題が解決され得るということを見出すでしょう。
それは、私たちが問題について何かを積極的にしてきたからではありません。
問題は、私たちがそれに完全な注意を注いでいないときにのみ存在するのです。
非難の感覚がなく、現在を理解するために過去を使うことがないなら、
そのとき私たちはそれに完全な注意を注ぐことができるのです。



問うことは重要です。
それは自分をさらけだします。
正しい問いをするなら、正しい答えはそのなかにあるでしょう。
ひとは生のなかのあらゆることを問わなければなりません。
自分の嗜好、服装、歩き方、食べ方、どんなことを考え、どんな風に感じるのか
―あらゆることをです。



からだと心、神経のすべてで完全な注意を注ぐとき、
観察者、検閲官があるでしょうか。

ものごとが入ってくるのは不注意なときだけです。
この不注意が問題を引き起こし、
そしてその解決が不注意のなかでなおも追求されます。

答えを見出そうとすることなしに、釈明することなしに、
完全に、全的に、問題に耳を傾けているなら
―そこから逃避することなく、それと共に流れ、それと共に生きているなら―
そのとき問題がまったく存在しないことが分かるでしょう。
問題は気づきがないときのみ生じるのです。





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